任官後、最初に配属されたのが第一艦隊第六戦隊の旗艦であった重巡洋艦「青葉」でした。巨大な軍艦の内部で海軍の組織運用と規律を肌で学んだ中曽根氏は、昭和16年11月、「第2設営隊」の主計長として南方戦線への出動を命じられます。設営隊は、飛行場や拠点を建設するための技術者・軍属・民間工員など約3,000人を束ねる巨大な後方部隊でした。
昭和17年(1942年)1月、部隊はボルネオ島(現インドネシア)の要衝・バリクパパンへの上陸作戦を敢行します。しかし、泊地で連合軍の潜水艦および駆逐艦隊による急襲を受け、輸送船団が次々と被雷炎上する「バリクパパン沖海戦」に巻き込まれました。
乗船していた輸送船「敦賀丸」が沈没する中、中曽根氏は炎上する重油の海へ身を投じ、猛火とサメの危険を潜り抜けて奇跡的に海岸へ泳ぎ着きました。しかし、部下の多くが命を落とし、物資の大半を失う悲劇に直面します。このとき海岸に散乱する戦死者の遺体を荼毘に付した強烈な体験が、生涯消えない国家観の原点となったと後に述懐しています。